2007年 08月 19日
祭のあと
あ~今年も無事にみたま祭が終わったぁ~
そうホッと一息と言いたいところですけど、なかなかそう思うようにはいかないもんです。。。(^_^;)
祭りの残務処理やら、次に待つ行事の段取りやら・・・
忙しいうちが花だ! と自分に言い聞かせてもう一頑張りしています。
昨日、大学時代の後輩が訪ねてきてくれました。
奥さんのお母さんのご実家が福井だということで、皆さんで来てくれたのですが、懐かしい顔に出会えると嬉しいもんです!それも元気な顔だとなお更ですよね。昼間から赤い顔をしていましたが(笑)
この夏は、特に戦争に関するTV番組、それも2時間作品が多かったように思いました。
色んな人から「はだしのゲン感動した~」とか言われます。
ただ、感動や、可哀想で終わってしまって良いのでしょうか?
原爆を落とされた時のことを描いた映画。可哀想じゃないはずはありません。現実はもっともっと悲惨であり、多くの人が一瞬で命を落とし、多くの生死の別れがあったはずです。
なぜあのような原爆が落とされたのか。
誰が「あやまち」を犯したのか。
なぜあの戦争が始まってしまったのか。 等々
日本人自身がもっともっと検証しなければならない問題は山積みです。
あの映画がそのことに一石を投じてくれるのなら、大きな意味があると思います。しかし、戦争=可哀想=悪=旧日本軍という短絡的な図式を助長するだけのような気がしてなりません。
自虐史観からの脱却。
これがやっぱ第一なんやろなぁ~ そう思いつつPCのキーを叩く日々です。
政治の流れが番組にもドラマにも反映されるのかと
つくづく感じたこの年ですね
歴史の検証に政治の流れは関係なく、正しく検証され語り
継がれることを切に願います
この検証を誤ると、本当に取り返しのつかない方へと転がってしまいますもんね。
私たちは戦後60年、憲法に基づいた新しいレジームを選択し・・・などと言い出す議長もいます。
ありもしない『従軍慰安婦』を認め、国家に莫大な損害を与えたこの人にこそ、歴史の検証をして欲しい!と思っているのは私だけでしょうか・・・
初めてみさせていただいています。
10年前まで4年も大宮2-11に住んでいたにもかかわらず御参りに行きませんでした。すいません。
最近は歴史に証人の方々も亡くなってきていて検証も難しくなってきているようです。
まずは自分の祖父や曽祖父に聞くのが一番かと思います。
(私の祖父はシベリヤ抑留組と特攻隊の生き残りでした)
まだまだ暑いかと思いますががんばってください。
福井に行ったら御参りしたいと思います。
大宮2-11、メチャ近いですね~、まさにご近所さんです。
私も小さい頃から祖父や戦友の方々の話を聞いて育ちました。
お酒を飲みながら、赤い顔をして、時には大きな声で語り合っていた祖父やその友人の姿が今でも思い出されます。
ぜひぜひ、色んな話を聞いて下さいね~
そして、またその話を聞かせて下さい!
今はどちらにいらっしゃるんですか?
また福井に来られる日を楽しみにしております!ぜひお立ち寄り下さい(^.^)
ようこそです!
仰るとおりですね。戦争と宗教の繋がりは否定できませんし、特に古代から中世にかけての西洋ではそれが顕著に表れているように思います。
そんな世界の中にあって、日本人が古くから大切にしてきた、というより受け継いできた「八百万神々への尊崇の念」こそが、とても大切なのではないかなぁと思います。
う~ん、願いをしても叶うかどうか。。。返答が難しいですねぇ。。。
私たちの国では、天神さんの菅原道真公、東照権現の徳川家康公など、大きなご事績を残された方々を神として祀ってきました。
時代によっては、怨霊となるのを恐れたりした場合もありますが、そのご功績を讃えられて祀られた場合が多いですよね。
そして、八百万の神も万能の神では無いと思います。誤解を恐れずに言うと、私たちの「願い」を全て叶えてくれる「神」は存在しないと思います。
交通安全の祈願をしたとします。
それからしばらくして事故にあった。それも少々荒い運転をしてです。そこで「ご利益が無い!」と神様のせいにするのと、「これだけで済んだ」と感謝される人とでは、今言う「願い」の叶い方は違いますよね。
英霊は神に昇格させられたのではなく、神として祀られたのだと思います。
祖国の為に戦われた英霊こそ、何より国の発展や、私たちの幸せを願ってくれていたはずです。その御心ある神々に祈りを捧げることは何ら不自然なことではないのではないでしょうか。
人を敬うことは大事ですが、だからといって神として祀って祈りを捧げるのは、宗教の本質をあまり理解しておられないような気がします。祈るということは、神社の本尊で礼拝することと繋がってきますが、これは単に尊敬するとかいう状態よりさらに強い影響を受け、それによってもたらされる果報は人生に大きな影響を与えます。狐憑きの例を挙げてみると解りやすい思うのですが、実は、これは人が動物の霊に憑かれたのではなく、その人が、狐を本尊としているモノに礼拝したせいで、狐の畜生の命にその人の畜生の命が感応したことによって、狐のような仕草などが似てくるのです。祀られた人が怨念を抱いて死に人がそれに礼拝すると、祀られた人の怨念という怒りの命がその人の怒りの命と感応し、その人の命は怒りで満ちてしまうのです。故に尊敬できる人だから何でも祀って、それを礼拝するのは…ということになるのです。